お仕覆の結び
私が結びを始めるきっかけとなったのは「花結び」(田中年子著)という本でした。
そこには美しいお仕覆の結びが載っていました。結び目を意識したことがなかった私はその美しさ以上に結びに「鍵」の役割を持たせていたという解説に衝撃を受けました。お茶に毒を盛られないよう茶道役のみ知る結びが茶入れ袋に施されていたというのです。この時私は初めて日本の文化というものに強い興味を持ちました。
このような結びは「封じ結び」と言われます。戦乱の時代が過ぎ、茶道が民間のものとなるにつれ花鳥風月を結びに托すようになったそうです。お仕覆の結びを再現された橋田正園先生が研究されていた文献「玉のあそび」(雄川兵甫著)には60種類余りの結びが紹介されています。その中から数点ご紹介します。
「玉のあそび」 寛政13年(1801年)刊行
この本には浪花の画家、雄川兵甫という人が描いた茶入れ袋の結び60点余が載っています。
兵甫は和漢の絵に秀でた人でいつも茶入れ袋の結びを気晴らしに描いていたそうです。息子の兵徳がある人に「風流な人たちのなぐさみになるかも」と勧められ、この結びの技を知ってもらいたいと木版に彫りつけ刊行したとわれます。芸事は口伝が中心の時代にこのような本が刊行されたことはとても意義深い事でした。結び研究家の額田巌氏は「もしこの本が刊行されていなかったら、その後のわが国の『花結び』の世界は極めて淋しい物であったに相違ない」と述べています。
この結びの絵を見ていますと、解けば一筋の紐に戻るこのお仕覆の結びを江戸時代の人々はパズルのように楽しんでいたのではないか、と想像してしまいます。裂の絵もセンスよく、紐の線も非常にきれいで見ていて飽きません。兵徳の想いが伝わってきます。
※2012年に国会図書館で閲覧・印刷。
国会図書館では「結もの玉の遊」(国立国会図書館請求記号166-210)
上段:左「常の結び」・中「真の封じ結び」「常の結び」・右「横封じ結び」「草の封じ結び」
下段:左「梅結び」「たての封じ結び」・中「頭巾結び」「ふくろ結び」・右「たま結び」「光琳松結び」
「包結図説」(伊勢貞丈著)宝暦14年(1764年)
貞丈は「貞丈雑記」の中で茶道について「武士たる者のすべきなぐさみにあらず。おろかなる遊事なり云々」とかなり厳しい事を書いています。それでも「包結図説」の中では茶入れ袋の長緒の結びをきちんと取り上げています。その理由が貞丈らしく「右の袋の長緒の結び方は、当家の流儀というほどのものでもない。また他家の流儀ということでもない。昔からこのような結びのことは、世間の人々のてずさみである。こんなことも知らないとあっては、口惜しいことではあるまいか。」とあり、武家故実家としてのプライドをのぞかせます。
お仕覆の結びの特徴は紐が輪の状態で始まること。その最初の紐の掛け方は重要になります。貞丈は絵が上手で袋と紐の構造について詳しく説明をしています。花の結び方の代表でもある「梅結び」についても絵で基本的な紐の掛け方を載せています。茶入れ袋の結びがどのように結ばれているか、この本でその解明はかなり進んだものと思われます。
下図:包結図説より
「仕覆」は茶入れに限らず、薄茶碗、茶椀など、道具類を入れる袋物の総称で「仕服」とも書きます。貞丈は長緒について、食籠、茶わん、香木、箱などの袋の類に使うと説明し、何袋には何むすびと云う決まりはないとも述べています。
下図1行目には「何むすびにするとしても下結びをしておいてからいろいろに結ぶ」とあります。
※国会図書館デジタルアーカイブより
室町時代には小笠原家と伊勢家が武家故実の家として栄え、茶道における結びについても伊勢家が関わっているというような記述もありますが、「貞丈雑記」の中で貞丈はきっぱりと否定しています。この事はとても興味深い事でした。
貞丈雑記(2巻)「茶の湯の法式の事」
「伊勢家は東山殿時代の礼法の家なる間、東山殿の茶の湯の法式伝わるべし、と世間の人の云うは、推量違いなり。慈昭院義政公、応仁の乱にて世の中さわがしきによりて東山に隠居し給い、さびしさのなぐさみに御手ずから茶を立てて近臣に給いしとなり。将軍の御手ずから立て給いし茶なる故、一椀の茶を一口づつ呑みて廻し頂戴しけるとなり。これは茶坊主のするわざを手ずから時のたわぶれにし給いし事にて、法式などを定められしにはあらず。されば、我が先祖伊勢守などうけ給わりて教え指南する程のことにてはなかりし故に、茶の湯の法式と云う事、家の旧記にはなきなり」